2026年6月24日、WRSTC(世界レクリエーショナル・スクーバ・トレーニング・カウンシル)のウェブサイトが更新された。米国評議会RSTCの会員リストから、名前がひとつ、消えていた。
SSI。世界最大級のダイビング指導団体であり、1987年の米RSTC設立に名を連ねた、創設メンバーである。
発表はなかった。声明も、説明もない。39年続いた関係の終わりを告げたのは、ウェブページの静かな書き換えだけだった。
沈黙を先に破ったのはSSIだ。全世界のプロ会員に宛てた文書で、「事前の通告なく除名された」と。米RSTCは6月29日、短い声明で応じた。除名ではない、所定の手続きに基づく「資格停止」である、と。
除名か、停止か。言葉の応酬はニュースになった。だが本当に奇妙なのは、そこではない。
両者の言い分を突き合わせると、発火点はたった一つの文書に絞られる。「アシスタント・インストラクター基準」―― 資格階層でもっとも地味な等級を定めた、2002年制定の規格書だ。SSIはこの四半世紀前の基準を、現行の国際規格に合わせて更新しようと提案した。その結果が、これである。
基準を新しくしようと言った側が、消された。
なぜか。声明を何度読み返しても、埒が明かない。だが幸い、この事件の「物証」は隠されていない。争点の規格書そのものが、WRSTCのサイトに、誰でも読めるPDFとして置かれている。
ただ、この文書を開く前に、前提を少しだけ整理しておきたい。RSTCとは何者で、ISOとは何者なのか。この二つが分かると、事件の異様さが立体になる。
床を作った者たち
まず知っておくべきことがある。レクリエーションダイビングは、ほとんどの国で、国家が免許を出さない世界だ。車を運転するには国の免許が要る。だが海に潜るのに、国の許可は要らない。この空白を埋めてきたのが、業界の自主規制である。
1987年、米国の主要指導団体 ―― PADI、SSIをはじめとする各団体 ―― が集まり、RSTC(レクリエーショナル・スクーバ・トレーニング・カウンシル)を設立した。目的はただ一つ。加盟するすべての団体が守るべき「最低指導基準」を定めることだ。各団体の講習は、中身も名称も教材も違っていい。ただし、この床より下には誰も降りない ―― そういう相互協定である。団体の違うCカードが世界中で互いに通用するのは、発行元がどこであれ、同じ床の上に立っているという前提があるからだ。
1997年、この枠組みは世界に広がった。米国・カナダ・ヨーロッパ・日本、4地域の評議会を束ねるWRSTC(世界RSTC)が発足し、以来その最低指導基準は、業界が業界自身に課した世界共通の床として機能してきた。
一方、2007年、この世界にもう一人の登場人物が現れる。ISO ―― 国際標準化機構。スイスに本部を置く世界最大の標準化団体で、A4用紙の寸法からクレジットカードの大きさまで(そう、あなたのCカードがあのサイズなのもISO規格だ)、あらゆる分野の国際規格を定めてきた組織である。そのISOが、レクリエーションダイビングの国際規格を承認した。ダイバーの等級を定めるISO 24801シリーズ。インストラクターを定めるISO 24802シリーズ。策定には世界中の指導団体が関わり、規格は以後も定期的な見直しにかけられ続けている。
つまり現在、ダイビングの「世界基準」は二系統ある。業界が自分で作った床(WRSTC最低指導基準)と、国際規格の床(ISO)。二つは長く静かに共存してきた。多くの団体が両方への準拠を掲げ、誰もその関係を正面から問わなかった。
2026年2月までは。
二月の提案と、四か月の沈黙
その2月、SSIは米国とヨーロッパ、二つの評議会に同じ提案を出した。2002年制定のまま止まっているアシスタント・インストラクター基準を、国際規格ISO 24802-1 ―― 2014年制定、2024年に見直し確認済み ―― と整合させる、という内容だ。
ヨーロッパ評議会の回答は、イエス。2026年10月1日リリースの基準改定に反映する、と期日まで添えた。
米国評議会の回答は ―― なかった。賛成でも反対でも対案でもなく、沈黙。そして4か月後の6月24日、提案者の名前がリストから消えた。
同じ提案。片方は期日つきの合意。片方は無言の処分。この非対称が、事件の心臓部だ。組織が議論を避けて相手を消すとき、興味深いのはいつも、消された側ではない。議論されたくなかったものは何か、のほうである。
規格書を開く
さあ、開こう。WRSTCの2002年基準の認定要件は、拍子抜けするほど短い。直近1年以内の健康診断。免責書類への署名。オープンウォーターコース1本の補助 ―― 模擬演習でも可。学科・プール・海洋で各1回のプレゼンテーションの実施。所属団体が定めるCPR・救急・レスキュー訓練の修了。通算70時間の関与。そしてログブックで確認できる、60本の潜水経験。
以上だ。
もう一度、ゆっくり読み返してほしい。この一覧には、現代の資格制度なら当然あるはずのものが、ない。
試験が、ない。合格基準が、ない。技能評価の項目表が、ない。
プレゼンテーションは3回「実施」すればいい。その出来を査定せよとは、どこにも書かれていない。評価に関わりそうな箇所はすべて「所属団体の定めによる」の一句で外部へ委ねられ、規格それ自体は、候補者に何ができるのかを、最初から最後まで一度も確かめない。数えているのは時間と本数 ―― つまり、そこに居た量である。
では、腕前を確かめないまま認定した人間を、この制度はどう扱うのか。規格書は、その点だけは正直だ。答えは、監督である。2002年基準のアシスタント・インストラクターは、指導にあたって原則、インストラクターの「直接監督」下に置かれる。直接監督の定義まで書いてある ―― 目視で観察すること。水中では同伴すること。単独で許される仕事は、認定済みダイバー相手の限定的なトレーニングまで。
つまりこの規格書は、自分が認定した人間を、信用していない。時間で認定し、信用の欠落を、見張りで埋める。設計としては一貫している。能力を一度も確かめていないのだから、見張るしかないのだ。
次に、SSIが「これに揃えよう」と言った側、ISO 24802-1を開く。最初の数ページで、設計思想が逆立ちしていると分かる。
この規格では、資格の定義そのものが「所定の評価に基づき、適格と判断された者」だ。評価が資格を作る。評価のない資格は、定義上、存在しない。個人スキルには「デモンストレーション品質」―― 生徒の手本になる水準 ―― での実演が要求される。教える能力については、準備、計画、ブリーフィング、グループ管理、スキルデモ、問題の発見と対応、生徒の評価と、査定すべき項目が列挙され、規格の丸ごと一章が「評価」に充てられている。
そして、探しても見つからないものが一つある。総講習時間の定めが、ない。何時間かけるかは、この規格の関心事ではない。関心事は、最終的に何ができると証明されたか ―― それだけだ。
証明を通った者への扱いも、対照的である。ISO整合を掲げるSSIの現行基準では、アシスタント・インストラクターは学科とプール講習を、インストラクターの「間接監督」―― 責任者はいるが、常時その場に立つわけではない ―― のもとで教えられる。一部の入門プログラムは、単独で実施し、カードの発行まで担える。
二冊の規格書を机に並べると、違いは一行で書ける。
試験で腕を確かめた制度は、合格者を一人で働かせられる。確かめなかった制度は、誰かに見張らせ続けるしかない。
監督とは、省略された試験のツケである。試験なら一度で済む。監督は、現場が毎日、永久に払い続ける。
運転免許で考えれば分かりやすい。本免許とは「試験に合格した以上、一人で運転してよい」という国の宣言だ。もし合格後も一生、助手席に指導員を乗せろと言われたら、それは国が自分の試験を信じていないという告白だろう。2002年基準のアシスタント・インストラクターは、まさにその状態に置かれている ―― 認定されても、永久に仮免なのだ。
制度が自前の試験をどこまで信じているかは、合格者をどこまで一人にできるかに、正直に表れる。
沈黙の理由
ここまで読めば、米国評議会の沈黙に、一つの説明がつく。
SSIの提案を公開の場で議論するには、2002年基準を弁護しなければならない。「合格を要求しない認定制度」を、2026年に、正面から。それは分の悪い議論だ。もちろん反論はできる ―― 時間数の縛りが消える、監督が減る、これは緩和ではないか、と。実際、時間と監督という軸の上では、SSIの提案は緩和に見える。だがSSI側の再反論は単純で、強い。緩めるのではない、評価で証明させるのだ。証明した者に自律を与えるのは緩和ではなく、まともな評価制度の当然の帰結だ、と。
議論を続ければ、争点は一つに煮詰まっていく。時間か、能力か。そして「時間」の側に立って公開の場で勝つのは、難しい。
念のため断っておく。ここから先は推測だ。米国評議会は沈黙の理由を説明していないし、内部で何が起きたかを知る立場に筆者はない。ただ、推測の材料は公開されている。
SSI停止後の米国評議会に残る主要団体は、PADI、SDI、RAID、SNSI、IANTD、SEI、NASE。規模で言えば、一強はPADIである。NAUIの名前も、すでにリストにない。業界最大手を除く大手が、そろって評議会の外にいる計算になる。そして ―― 後で見るように米RSTC基準を土台とする日本のCカード協議会は、協議会自身のサイトによれば、業界向けの問い合わせ窓口をパディ・アジアパシフィック・ジャパン経由としている。
これらの事実は、単体では何も証明しない。だが、「基準を能力評価型に上げませんか」という提案への回答が、議論ではなく削除だったとき ―― いまの基準のままで最も都合がいいのは誰か、と考える人間を止めることは、誰にもできない。
日本 ―― 同じツケを、いちばん律儀に払う国
ここまでは、太平洋の向こうの話だ。ここからが、本題である。
日本のレジャーダイビングの土台、Cカード協議会(一般社団法人レジャーダイビング認定カード普及協議会)は、WRSTCの日本評議会にあたる。そして協議会は、自らこう説明している。採択している最低指導基準は、米国RSTC基準に基づいて作成された、と。つまり日本のCカードは、いま読んだばかりのあの設計 ―― 時間を数え、能力を確かめず、監督で埋める ―― の直系の上に建っている。
しかも日本には、この設計を戯画の域まで純化した国家資格がある。潜水士免許。労働安全衛生法に基づき、業務として潜る人間に義務づけられた資格だ。その試験は、学科のみ。実技試験は、存在しない。制度の理屈の上では、一度も水に入ったことのない人間が、国家公認の「潜水士」になれる。国は、潜れるかどうかを確かめないまま「潜水士」の名を与える ―― 2002年基準と、寸分違わぬ思想である。
そして、レジャーの現場。思い出してほしい。監督は、省略された試験のツケだった。日本のダイビングは、そのツケを、世界でいちばん律儀に払い続けている。
認定を取っても、原則ガイドの後ろ。何年潜っても、何十本重ねても、ガイドの後ろ。ログブックに200本を刻んだダイバーが、今日もガイドの列に並ぶ ―― 認定されても、永久に仮免。あの規格書と同じ構図が、この国では日常の風景になっている。バディだけで潜る自律ダイバーは例外的な存在で、その例外への入り口さえ「経験50本以上」といった本数の関所が守っている。関所が数えているのは、やはり時間と本数 ―― そこに居た量だ。
循環の構図は、こうなる。カードが能力を証明しないから、現場は永久の監督で埋め合わせる。永久に監督されるから、ダイバーは自律を求められず、自律の技量も育たない。技量が育たないから、カードはますます信用されない。
この循環の出口に立っているのが、海外のダイブオペレーターである。日本のカードとログブックを差し出したゲストに、彼らが笑顔で「まずチェックダイブを」と言うとき、そこにあるのは日本人への偏見ではない。職業上の学習だ。彼らは、このカードが何を保証していないかを、経験から知っている。日本人ダイバーの海外での評判とは、つまるところ、この制度設計が輸出された姿なのだ。
筆者から ―― 値踏みされていたのは、私ではなくカードだった
これは伝聞ではない。白人の私でさえ、オープンウォーターの頃は、海外のダイブサイトに着くたびチェックダイブを求められた。人種の問題ではない。値踏みされていたのは、私のカードを発行した制度 ―― 日本という認定地のほうだった。
問いは、もう閉じない
SSIと米RSTCの争いがどう決着するかは、分からない。SSIが復帰するのか、袂を分かつのか。だが決着がどうあれ、SSIがこじ開けた問いは、もう閉じない。
認定とは、修了の記録か。能力の証明か。
ヨーロッパは10月1日、証明の側へ基準を動かす。アメリカは、問うた側を消した。二つの評議会が正反対の答えを出した以上、米RSTC基準の直系の上に立つ日本の評議会も、いずれこの問いから逃げられない。現時点で、この問いが国内で公に議論された形跡はない。その沈黙は、米国評議会の沈黙と、不気味なほどよく似ている。
だから、業界より先に、ダイバーが問えばいい。
次にログブックを開いたら、並んだ判子と本数を眺めて、自問してみてほしい。これは、私が水中で何をできるかの証明だろうか。それとも、何時間そこに居たかの記録だろうか。
インストラクターなら、問いはもう一段、深くなる。あなたが出しているそのカードは ―― どちらだろうか。
そして、ガイドの後ろに並ぶ次のダイビングで、一度だけ考えてみてほしい。この仮免は、いつになったら本免許になるのか。ツケを払い続けるのか ―― それとも、証明して、卒業するのか。
四半世紀前の規格書は、読まれないことで生き延びてきた。
もう、読まれてしまった。