「水素を呼吸して、230メートルの深さへ挑む!」 この信じられない挑戦を、ニュージーランドの「ピアース・リサージェンス」洞窟で実際に成し遂げたのは、世界有数の洞窟ダイバーであり、チーム『Wetmules』に所属するリチャード・ハリス氏とクレイグ・チャレン、そしてその仲間たちです。水素を含む呼吸混合ガスを用いて13時間にわたり水中に滞在し、驚異的な深度に到達しました。この大胆で危険な冒険に彼らが挑む理由とは?そして、その先に何が待っていたのでしょうか?
水素と聞けば、ほとんどの人がその危険性を連想するでしょう。軽く、爆発のリスクをはらんだガスです。その一歩間違いが取り返しのつかない事故を引き起こす可能性があるにも関わらず、ハリス氏はあえてこの危険なガスを選びました。水素には、深海の謎に挑む鍵が隠されているのです。理論と現実のリスク、その狭間に挑む彼らの姿には、未知への果てしない探究心が宿っていました。希望の扉を開けるのか、それとも破滅の引き金を引くのか — その答えを見つけるため、彼らは不確実性の中に飛び込んだのです。
ピアース・リサージェンス洞窟—それは地球上でも最も挑戦的な場所の一つです。水深245メートルまで探索されているものの、その先には未踏の未知が広がっています。新たな発見の可能性に満ちたこの洞窟は、単なる記録破りの場ではなく、人間の限界と科学的探究の舞台なのです。
自然が「ここに来る者を試している」
ニュージーランド南島の手つかずの自然に囲まれたこの洞窟に辿り着くこと自体が、既に冒険です。道のない地を進むことはまるで自然が「ここに来る者を試している」かのようです。技術と精神力を試す究極の挑戦、それこそがピアース・リサージェンスが冒険者たちを引きつける理由です。
未知への探求心、冒険への衝動 — それがリチャード・ハリス氏と彼のチームを動かしていました。科学的な発見と人間の限界を押し広げるため、彼らは洞窟の奥深くにある未踏の領域に挑んだのです。
深度40メートルで、空気はもう麻酔効果を持つ。さらに深く潜れば、酸素は命を脅かす毒になる。
なぜ通常の空気ではピアース・リサージェンスのような極深な洞窟に対応できないのか?それは、「酸素」という不可欠な存在が、深度によって命を脅かす存在へと変わるからです。深度が深くなるにつれて、周囲の圧力は急速に増加し、それに伴いガスの密度も高まります。その結果、呼吸するたびに体内に取り込まれる酸素の分子量が増え、過剰な酸素の摂取が深刻な危険をもたらします。
極限深度では、過剰な酸素が「酸素毒性」としてダイバーの命を脅かす存在へと変わります。酸素毒性は神経系に致命的な影響を与え、痙攣や意識喪失といった危険な症状を引き起こします。深度が深くなるほど酸素が命取りになり得る理由がここにあります。ハリス氏が230メートルの深度に挑むためには、これを避けるために酸素濃度を最大でも4%に調整する必要がありました。
そのため、極限深度でのダイビングでは、酸素の濃度を通常よりも低く調整し、他のガスと混合して使用する必要があります。このとき、残りの部分を窒素やヘリウムで補います。しかし、窒素には別の問題があります。深度30メートルを超えると「窒素酔い」と呼ばれる麻酔効果が現れ、90メートル以上では完全に判断力を奪われる危険な状態に陥ります。
そこで代わりに利用されるのがヘリウムですが、これも万能ではありません。深度150メートルを超えると「高圧神経症候群(HPNS)」という新たなリスクが発生します。HPNSは、極度の圧力下でヘリウムを使用することによって引き起こされ、震えや吐き気、めまいなどの症状を引き起こします。これらの症状は、極限深度での冒険をさらに困難にし、ダイバーの安全を脅かす重大なリスクです。
高圧神経症候群(HPNS)の影に潜む命の危険 — パイオニアダイバーたちの命を奪った可能性のある症状を、ハリス氏は自らの経験として深く理解した。
1996年、洞窟ダイビングのパイオニアであったシェック・エクスリーは、メキシコの「コツザカトン」というセノーテで水深300メートルに挑みましたが、その挑戦の途中で命を落としました。エクスリーの死因はHPNSであった可能性が高いとされています。
ハリス氏は2020年にピアース・リサージェンスで水深245メートルに挑み、その際にHPNSの症状に苦しみました。この経験により、ハリス氏は極限深度における圧力の危険性を自らの身をもって深く理解しました。HPNSがどれほど深刻なリスクであるか、彼にとってそれは単なる理論ではなく、実体験に基づくものとなったのです。この経験から、ハリス氏は次なる挑戦に向けて慎重に計画を練る必要性を痛感し、危険を顧みずにさらなる深度に挑むために新たな手段を模索しました。そして、その答えとして浮かび上がったのが水素だったのです。
水素には、HPNSの症状を軽減する可能性があると示唆するいくつかの研究が行われてきました。フランスのCOMEX社が行ったHydra 8プロジェクトは、その中でも最新であり、ハリス氏にも知られているものでした。このプロジェクトでは、水素を加えた「ハイドレリオックス」という混合ガスを使用し、水深534メートルに到達しました。そして、その深海でHPNSの影響を軽減することが確認されました。しかし、それは管理された環境、いわゆる飽和潜水の中で行われた実験に限られていました。これらの実験では、ダイバーは長期間の高圧環境に順応することができる飽和潜水システムを使用しており、制御された条件下で深海に挑んでいました。
一方、ハリス氏は世界で初めて、水素を使用してスクーバダイビングでの洞窟探検に挑もうとしていました。それも「リブリーザー」という装置を使い、洞窟という過酷な環境での挑戦です。飽和潜水とは異なり、スクーバダイビングでの水素使用には新たなリスクが伴い、そのリスクを克服するためには未知の困難が待ち受けていたのです。
水素を使えば、ピアース・リサージェンスのさらに未知の領域に到達できるかもしれない — そう考えたハリス氏。しかし、水素は非常に可燃性が高く、一歩間違えば爆発の危険が常につきまといます。特にリブリーザー内の電子部品から発生する静電気が引火のリスクを高める可能性がありました。水素の引火に必要なエネルギーは、わずかな静電気の400分の1に過ぎず、ガソリンの引火に必要なエネルギーの何百倍も少ないのです。ほんのわずかな摩擦でも、引火のリスクは現実のものとなります。
しかし、水素が引火するには酸素が最低でも4%以上必要であり、ハリス氏は今回の挑戦で酸素濃度を4%未満に保つことで水素の引火リスクを低減できると考えました。深度が深くなるにつれて、酸素濃度を抑える必要があるため、この条件は水素の使用を可能にする重要な要素となったのです。
ハリス氏は、この大きなリスクを抱えながらも、まずは自宅で実験を行うことを決意しました。彼はオーストラリアの自宅に水素のボンベを取り寄せ、「ちょっと試してみよう」という軽い気持ちでテストを決行。自宅の庭にあるプールを使い、リブリーザーを改造して水素での呼吸に挑戦しました。万が一の爆発のリスクを抑えるため、自分のプールという「ある程度の安全地帯」を選んだのです。プールフェンスの向こうからは愛犬が興味深そうに見守り、奥さんは幸いにも外出中でした。
最初の一口を吸った瞬間、彼は「軽く、滑らかで、冷たい」と感じ、その呼吸のしやすさに驚きました。そしてこう付け加えました。「水素を吸うと声がヘリウムよりも滑稽になるね。家も犬も無事で、本当に良かった」と、安堵とともに笑いました。
「もしその混合ガスが燃えた状態で呼吸していたら、そのダイブはとても悲惨なものになるだろう。」 ジョン・クラーク氏: H2ワーキンググループのメンバーであり、元アメリカ海軍実験潜水部門の科学ディレクター
2020年、新型コロナウイルスのパンデミックが始まった頃、「H2ワーキンググループ」が結成され、深度250メートル以上のダイビングについて議論が始まりました。ヘリウムだけでは限界に達していることは明らかであり、新しい技術が必要でした。その中で、水素をガス混合に加えることが主要な選択肢として浮上しました。
ハリス氏もこのH2ワーキンググループのメンバーでしたが、彼の計画を知った多くのメンバーは反対しました。「ピアース・リサージェンスは実験の場ではない」という意見や、「まずはチャンバーでシミュレーションを行うべきだ」という忠告が飛び交いました。しかし、ハリス氏は自らの信念を曲げることなく、計画を進める決意を固めました。
ピアース・リサージェンスは遠隔地に位置し、アクセスは極めて困難です。現地に到達するにはヘリコプターで10回も往復し、チームと数トンにも及ぶ装備を運び込まなければなりませんでした。この装備にはダイビング器材だけでなく、水中減圧ステーション、水素やヘリウムのタンクなど膨大な量の物資が含まれており、まさに「移動する基地」とも言えるものでした。ハリス氏とそのチームは数週間にわたり現地に滞在し、洞窟の準備やテストダイブを繰り返し行う必要がありました。人間の探究心と自然の厳しさがぶつかり合う瞬間そのものでした。
そして、洞窟の深部に向けたダイビングには水中減圧ステーションを設置する必要がありました。水中減圧ステーションとは、ダイバーが深度から徐々に浮上する際に減圧停止を行うための小型の居住空間で、内部は空気で満たされており、冷たい水から身を守りながら長時間の減圧を安全に行うために設置される設備です。これにより、ダイバーは体温を保ちながら減圧を行い、安全に浮上することができます。6℃の冷たい水中で約13時間にわたり減圧するために、水中減圧ステーションを慎重に設置する必要がありました。
水中減圧ステーションを設置する作業は非常に困難で多大な労力がかかりました。ハリス博士は「水に入るたびに何かが壊れたり、圧力で外れたり、機能しなくなったりした」と語っており、この作業がどれほど過酷であったかを物語っています。
いよいよ水素のダイブ当日、リチャード・ハリス氏と彼のダイブパートナーであるクレイグ・チャレンは、230メートルの深さに挑むべく準備を整えました。彼らはそれぞれ2つのリブリーザーを背負っていました。ハリス氏は一方にトライミックスガス(酸素、ヘリウム、窒素を混合したガス)、もう一方に水素を使用するよう改造したリブリーザーを装備し、クレイグ・チャレンは両方ともトライミックスガス用のリブリーザーを使用していました。
深度200メートルに達したところで、ハリス氏は息を飲む思いで水素リブリーザーに切り替えました。心の中では「本当にこれがうまくいくのか?」という不安が渦巻きながらも、「これならいける」という確かな手応えが徐々に広がり、彼を230メートルの計画深度へと進ませました。この瞬間、命を懸けた挑戦の真価が試されていたのです。
ハリス氏は深度を増していく中で、通常であれば現れるHPNSの症状が現れ始めましたが、水素リブリーザーに切り替えたことで症状が完全に消えたことに驚きを感じました。この瞬間、彼は新たな可能性を見出したのです。
しかし、これで全てが安心というわけではありませんでした。何よりも重要だったのは、水素を使用中に酸素の割合が4%を超えないように細心の注意を払うことでした。酸素濃度が4%を超えると、水素が引火して爆発するリスクがあるからです。このリスクを避けることは、まさに命に関わる最重要課題であり、常に意識を集中させていなければならないものでした。
浮上の際には、ハリス氏は深度200メートルで再びトライミックスリブリーザーに切り替えましたが、残留水素を完全に排除するため、深度150メートルに到達するまで10メートルごとにシステム内のガスを排出しました。
浮上中、彼らは慎重に減圧ステーションで計画通りに減圧を続けました。
このダイブは、深層洞窟探検の未来に向けた重要な一歩でした。「まだ誰も訪れたことのない沈船や洞窟が、未来の探検を待っている」とハリス氏は語ります。しかし、「結論:N=1」、つまり一度成功しただけの結果であり、これは新たな挑戦への扉を開いただけに過ぎません。
それでも、このダイブが示したのは、水素が深層ダイビングの新たな可能性を開く鍵であるということです。しかし、それはまだ始まりに過ぎません。リチャード・ハリス氏とそのチームの挑戦は、未知の深淵に挑む勇気と探究心に満ちていました。彼らの物語は、探検の真髄 — 未知への飽くなき探求 — そのものであり、まだ誰も見たことのない世界を目指す私たち全ての冒険心を刺激するものです。
Wetmulesとは?
Wetmulesは、極限の探検に挑む高度な技術と経験を持つダイビングチームであり、世界中の最も過酷な水中環境に挑戦しています。チームの中心メンバーには、リチャード・ハリス氏とクレイグ・チャレン氏が含まれており、彼らは洞窟ダイビングと深層ダイビングの分野で数々の記録を打ち立ててきました。特に、2018年にタイのタムルアン洞窟で少年サッカーチームを救出した功績で国際的に注目を集め、ハリス氏とチャレン氏はその勇気ある行動により2019年に「オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。
Wetmulesという名前は、彼らの耐久力とユーモアを反映したものです。彼らは、自らを「荷物を運ぶロバ」に例え、大量の装備を背負って水中の未踏の領域に挑む姿勢を象徴しています。このチームは、ニュージーランドのピアース・リサージェンスのような深い洞窟で記録的なダイブを行い、水素を呼吸ガスとして使用するなど、最先端の技術を駆使した挑戦を行っています。
彼らの冒険は、単なる記録の更新にとどまらず、人間の限界を押し広げ、未知の世界を探索するという深い探究心に根ざしています。Wetmulesのメンバーは、危険を顧みずに新たな可能性を切り開き、深層洞窟探検の未来における重要な一歩を踏み出しています。その挑戦は、私たち全ての冒険心を刺激し、まだ見ぬ世界への扉を開いてくれるのです。
さらに深くへ
Youtube: Dive Talks The first deep rebreather dive using hydrogen: a gateway to deep exploration? – Simon Mitchell (2023)
Youtube: Wetmules 245m Cave Dive in the Pearse Resurgence, New Zealand (2020)